5分でわかる竹田城の城主と歴史




5分でわかる竹田城の城主と歴史

 

竹田城の城主と歴史について、わかりやすくまとめてみました。

 

まず、竹田城を築いた人、築かれた年代については、資料などが非常に少なく、詳しくはわかっていません。

 

一説によると、永享三年(1431)この地に勢力を持っていた山名氏によって築かれ始め、10年後の嘉吉元年(1441)頃に完成したそうです。

 

しかも最初は『安井ノ城』という名前でした。

 

 

この頃、山名さんは同じくこの地に勢力を持っていた赤松氏(以下赤松さん)と対立しており、赤松さんに対する山名さんの最前線基地のひとつとして築城されました。

 

その後、山名さんは家臣の太田垣光景(おおたがき みつかげ)を竹田城主とし、しばらくの間、太田垣さんが竹田城主を務めます。

 

 

 

 

戦国時代になると、織田信長家臣・木下藤吉郎秀吉(のちの豊臣秀吉)が播磨に入国。

 

この時、太田垣さんは織田氏に従い、竹田城には秀吉の弟・秀長が入城します。

 

しばらくは織田氏に従っていた太田垣さんですが、その後、西から毛利氏の勢力が伸びてくると毛利氏に臣従。

 

これにより織田氏の怒りを買ってしまった太田垣さんは羽柴秀吉(これものちの豊臣秀吉、途中で改名)に滅ぼされ、太田垣さんの城主時代は終わってしまいます。

 

 

 

 

太田垣さんを滅ぼした秀吉は、秀長を有子山城(ありこやまじょう)、秀長の家臣・桑山重晴を竹田城主に任命しましたが、重晴はしばらくすると和歌山城に移ることになり、代わりに赤松広秀が2万2千石で竹田城に入城します。

 

この人が竹田城を改修して現在のカタチにしました。

 

しかし慶長五年(1600)に起こった関ヶ原合戦で赤松広秀は西軍に所属してしまい、戦後、改易されるピンチに。

 

しかし東軍に属した亀井茲矩の誘いで鳥取城攻めに加わって落城させる事に成功。

 

改易の危機を回避できると思われましたが、城攻めの時、城下がけっこう広範囲で燃えてしまい、このことを家康から責められて慶長五年10月28日鳥取真教寺にて切腹。

 

その後、広秀の居城だった竹田城は、江戸幕府の方針により、廃城となりました。

 

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